ここまで長々と書き続けてきましたが、結局問題なのはこの内容をどう伝えるかです。舞台上には役者を筆頭に、セット、小道具、照明と、伝えるための手段がたくさん転がっていますが、バラバラに是々非々で動いても面白くはなりません。これらの協働が必要になる、公演の中でも特に核となるような鮮烈なシーンを提案することで、お客さんに見せたい視覚的なアイデアを制作陣に共有してもらいます。
これは視覚的な舞台づくりへのきっかけとしての提案なので、次の①〜⑥へとピンポイントに絞りました。様々な理由で採用されなかったり実現しなかったものもありますが、その違いもまた制作の過程です。この最初のプランで気にしたことは3つ。
・登場人物に満遍なく触れているか
・時間的に全編をカバーしているか
・観客の予想を裏切り、公演の個性を刻み付けるようなアイデアを提示できるか
シーンとアイデア
①序曲・ジルダの母
撮影:伊藤大地 ※一部加工して使用しております。
かつてリゴレットを愛した女性がいたこと、リゴレットがジルダを彼女の生まれ変わりとして育てたことを、序曲の時間を用いて幻影として示す。ピンスポットの中に、リゴレットがジルダにそっくりな女性といて、笑いながら赤子をあやしている。しかしやがて女性は去り、追いすがるリゴレットに十字架型のペンダントを遺していく。序曲の終了とともに暗転した後、全体の明かりがつくと、そこはマントヴァの宮廷である。
十字架は、ジルダの母の思い出の象徴として用いる。リゴレットが肌身離さず持ち歩き、動揺すると握りしめ、ジルダの母について語る時に彼女に見せる。
②宮廷・仮面
撮影:伊藤大地
宮廷人は活気や方向性に欠ける無秩序な集団である。彼らは彼らの中においても自らの素顔を明かそうとしない。これを物理的に仮面で示すこともできる。舞踏会の個性的な仮面ではなく、能面やアフリカの仮面を思わせるような、硬質で感情を読み取ることができないものである。
ジョヴァンナも誘拐に加担した一味であることを示すために、ジルダとリゴレットの二重唱の後ろでは、仮面をかぶっていてもいいかもしれない。
③ジルダとリゴレット
撮影:伊藤大地
1幕では、リゴレットがジルダの庇護者なのではなく、ジルダがリゴレットに精神の安定をもたらしていることを示す。リゴレットは彼女に依存していて、彼女は父を置いていくことができない。
一方の2幕では、復讐を歌い始めたリゴレットの目にはもうジルダが入っていない。彼は十字架すら投げ捨て、ついに反逆するという残酷な興奮に高ぶっている。彼はジルダを顧みることすらせず、彼女を置いて舞台を去る。
④スパラフチーレとマッダレーナ
撮影:奥山茂亮
彼らは戯画化して描いた方が良いかもしれない。街角で見知らぬ男に対して、無警戒に暗殺業について話を持ちかけるスパラフチーレ。美男を殺すのが惜しくなって無茶な提案をするマッダレーナと、応じてしまう兄。彼らは無思慮で無計画な時代に生きている人々そのものであり、知らないうちに道化となってしまう。
⑤女心の歌
撮影:伊藤大地
彼は女心について歌うが、一方で1幕では自らの放蕩についても歌っている。ここでは単に獲物としての女性を貶めるのではなく、自分を含めた宮廷人の中に蔓延している嘘偽りを無意識に歌う形にする。彼はスパラフチーレの家に、ベールのついたつば広帽など、女物で変装してやってきて、マッダレーナの私物に気づき、扇子をもちながら手鏡に向かって歌う。
⑥ジルダの死
撮影:奥山茂亮
ジルダはスパラフチーレに刺された時に死んでいて、袋の中身は既に死体である。嘆くリゴレットの後ろから、ジルダが別れを告げるために現れる。転がって悶えているのは父の方で、彼女はそれを悲しそうに見下ろしている。追いすがる父に十字架を渡し、彼女は母のもとへ去っていく(美術との関連、まとめへつづく)。
文責:伊藤薫