ドラマツルグを務めた伊藤薫です。
さて、ドラマツルグとは作品の解釈をおこなう役職で、「この公演を通じて何を伝えたいのか?」を決定します。このプランを元に演出が各部門を動かすわけですから、僕の仕事は初めてのミーティングの以前に、ある程度「終わっている」必要があります。
以下の連載では、《リゴレット》製作に於ける最初期に演出家へ提出した資料を少しずつご覧いただき、団体の記録に代えるものです。

最初に考慮する必要があったのは、団体として初の悲劇である、ということでした。「楽しいよね!」を共有していればある程度行ける(ダメですけど)喜劇に対して、悲劇では「なぜこうなった?」「そこに救いはあるのか?」が公演の鍵になります。
以下が共有した資料の冒頭です。

 

悲劇の意義

この団体では初の悲劇である。大団円を迎える喜劇と異なり、その終わり方に十分な意味を持たせる必要がある。喜劇ではその喜劇性を各所で呈すれば公演が成り立つが、悲劇ではその悲劇性を前面に押し出せばよいわけではない。物語を押し進めていく、抗いがたい力の存在を常に感じさせなければならない。この力を運命と呼ぶこともできるが、それは各人の生い立ちと人となり、その相互作用によって生み出されるものだと考える。
すなわち、悲劇は理不尽な神のいたずらではなく、ある世界における人々の営みの、必然の帰結なのである。

 

目的


第一に、「なぜジルダは死んだのか」「なぜ復讐は果たされなかったのか」という点を明確に解決する。
物語の内部ではモンテローネの呪いが理由としてあげられるが、それではジルダがリゴレットの付属物として死ぬだけであるし、何より公爵が無事であることの説明がつかない。

次に、リゴレットの悪行と陰険さに報いが下ったとも説明されるが、これもジルダに主体性を欠き、生まれを呪うリゴレットに追い討ちがかけられる一方で自由を謳歌する公爵には何事もなく、各々の運命のアンバランスは極まるばかりである。

表面的に作劇を追ってみると、もともと悲劇的な主人公にさらに悲劇的な運命を与えることで、悲劇性が倍加しているのはわかるが、物語の陰湿さも同時に倍加している。また、ここまで述べてきたように、公爵とジルダ、特にジルダには共感しうる人物像を与えることができず、結局どのような人物なのかはっきりしないことも多い。
これを踏まえて復讐が悲劇的な失敗に終わった理由を論じ、もって各人の性格の設定につなげ、その人格を生み出すにいたった世界観について考察していく。

まず、復讐が失敗した理由は「それが誤った行為であったから」「それが正義の復讐ではなかったから」であろう。
復讐という行為自体を、それが復讐であるから誤っていると断じるのは浅薄であるように思われるため、ここでは避ける。つまり、ジルダが公爵への復讐を妨げ、父に彼を許すように懇願したのは、ジルダが盲目的に公爵を愛していたからでも、復讐という言葉自体が虚しいからでもない。「リゴレットが果たそうとした復讐は、彼自身の気付かないところで、矛盾や欺瞞の上に成り立っていた。彼は純粋に、愛する一人娘を傷づけた軽薄な男への正義の鉄槌を、自らを呪ったモンテローネに成りかわって下そうとしたのではない。だからリゴレットの願った『復讐』は果たされることがなく、ジルダは事の成就を妨げて彼女の母のもとへ上った。」と考えたい。
ジルダの死によって、リゴレットは自らの過ちに気付くのである。その過ちとは何だろうか。なぜリゴレットは過ちを犯してしまったのか。

この過ちが生まれる経緯についてたどっていくためには、リゴレットが二つの悲劇を抱える登場人物であることに留意する必要がある。

第一の悲劇は現代においては描きにくいことであるが、登場時に既に示されているように、彼が嘲笑の対象として生まれつき、道化として生きていかざるを得なかったことである。
第二の悲劇は劇の本体であり、彼が望みを託していた唯一の存在である娘を傷つけられ、その復讐を試みるもかえって娘を永遠に失うことである。
この二つを密接に結びつけ、第一の悲劇が第二の悲劇を生む過程を丁寧に描いていくことが今回の公演の鍵となる。前述した「過ち」と併せて構造を明確にすれば、まずはリゴレットの生まれと背景が描写され、次いで彼自身の抱える鬱屈が彼を過ちに陥らせ、過ちの結果として訪れる娘の死が、リゴレットと観客の胸に作品世界の悲哀を再確認させる、というような転機をたどる。
リゴレットの陥った過ちとは、端的に言えば、彼が復讐したかった相手は、彼を冷遇した世界そのものであり、娘の名誉を傷つけた公爵への復讐とは、その偽りの発露であった、というものである。

第一の悲劇の中で、リゴレットは世界に受け入れられる場所がなく、理解を得ることも無く、宮廷を軽蔑しながらもその中で生きていくことを余儀なくされている。彼の理想は、今は亡き彼を愛してくれた女性との思い出、その娘であり自らが育てたジルダとの愛情深い交わりの中にあって、汚れなきジルダの存在が彼の精神の均衡を保っている。この箱庭が踏みにじられた時、彼はついに世界に対して反逆し、道化にも公爵を殺すことができることを証明しようとする。しかし、娘の名を借りる欺瞞に満ちた「復讐」は彼の暴発に過ぎず、娘自身がその成就を阻み、第二の悲劇を引き起こす。ここまでの論は枝葉を欠いた概略にすぎないため、詳細はこの後に続く各項の中で述べる(背景へつづく)。

 

文責:伊藤薫
撮影:伊藤大地