各キャラクターと廷臣について、そもそも彼らの舞台上における存在意義を、問いかけと答えの形で設定しました。全てを読んだ時に、今回公演における物語全体の構造が完成するように構成しています。
世界観
オペラはしばしば、大仰な時代物として物語性が軽視されます。さらにリゴレットでは、差別的な表現が含まれることから、問題は複雑になります。作品が元々持っている背景について、その普遍性を抽出することで、現代に通用する物語を目指します。
せむしの道化師(リゴレットとは?)
身体障害者は、中世の宮廷において道化として雇われることがあった。彼らは通常の人間とは異なる存在として、嘲笑を受けながらも、ある程度自由な発言を許される特権をもっていた。リゴレットも宮廷人たちに奇形として蔑まれるが、マントヴァ公の庇護を受け、彼らを侮辱することで笑いを生み出している。リゴレットの側にも明白に、マントヴァ公を初めとする宮廷人たちへの軽蔑と憎悪がある。彼は道化としての特権を行使することで、宮廷人たちを口撃して欲望を満たしているのである。
しかし、リゴレットの独白によって、彼自身がそんな仕事を卑屈で邪悪であると考えていることもわかる。彼は自分が道化として生きなければいけないことを嘆き、それを強制した造物主と人間たちを憎む。ここで彼の思考は、自分のような道化を必要とし、造り出す人々に対する憎悪と嘲笑に戻っていく。嘲笑をまき散らす道化という職業を憎みながら強制され、しかし道化の仕事を通して自らの鬱屈を晴らしている。生まれつきそういう矛盾の中に囚われていることが、リゴレットの最大の悲劇である。
リゴレットは人間と見なされず、宮廷の片隅で孤独に生きてきた。彼が何よりも求めているのは愛情であり、理解されることである。ジルダに話すように、彼の唯一の幸せとはジルダの母に愛された過去であり、今はジルダが彼にとって世界の全てである。彼はジルダに自分の理想を投影して育て、ジルダはそれに応えて愛情深い娘に育った。昔、彼女の母親が彼を理解してくれたように、ジルダと住む家だけが彼の憎む世界から隔絶され、リゴレットが人間的に生きられる唯一の箱庭なのである。
ジルダがさらわれ、箱庭が宮廷人たちの手によって破壊された時、彼の中の均衡が破綻する。世界の中に聖域を失ったリゴレットは、ついに世界そのものに反逆し、自分が単なる「道化」ではないことを示そうとする。彼は娘の復讐と言ってマントヴァ公を殺そうとするが、ジルダが止めても聞く耳を持たない。これは彼自身の、彼を虐げた世界に対する復讐なのである。だからジルダはリゴレットの目に「残酷な喜び」を見るわけである。
宮廷について(世界観)
宮廷人のリゴレットに対する目線はどの演出でも好意的ではないが、その理由には彼の障害と振る舞いとの二つがあり、どちらによるものかは曖昧である。ここでは、宮廷人のあからさまな敵意というよりは、リゴレットを同じ人間と見なさずに無視している、という風に表現したい。彼のような存在が愛人を囲っている、という噂は現象として面白いし、彼が不快なことをすればその愛人を奪うことで仕返しをするが、そこには妬みや勘ぐり、悪意すらない。
この無関心は、何もリゴレットだけに向けられたものではない。チェプラーノを笑っていた合唱が、次の瞬間には彼らを笑わせたリゴレットを笑い、そのまた次にはチェプラーノと共にリゴレットに復讐する計画を練る。彼らは自分がその場で笑わされたり怒らされたり、といったことには反応するが、それ以上の価値判断は行わない。チェプラーノが笑い物にされていた時、宮廷人の誰一人としてチェプラーノを思いやることはなく、リゴレットへの復讐をたくらむ時、誰一人として止めようとする者はいない。
リゴレットを中心に見ると、彼らのような人々の無関心や無理解が、弱者の心をどのように傷づけ捻じ曲げるか、というテーマが現れる。しかし、無関心と無理解、という問題は社会的な立場を超えて世界全体に広がっていくものであり、その被害を受けず疑問も持たずに暮らしている彼らをしっかりと描くことができれば、リゴレットのテーマにも深みがもたらされる。その具体的な内容は、マントヴァ公についての説明、リゴレットの復讐の失敗の理由と「許し」において触れる。
もちろん彼らを集合としてのみ扱うわけではなく、マルッロ、チェプラーノ、ボルサはそれぞれの個性を持つ。しかし、それがこれまで述べてきたものを逸脱してはならない。彼らはみなこの世界で、同じような境遇のもとに育ち、同じような制限を受けながら同じような権利を享受している。
復讐の矛先(マントヴァ公とは?)
マントヴァ公は印象的なアリアが多い一方で、その人格には全くと言っていいほど印象が得られないことが多い。軽薄な遊び人であり、適当で自分勝手な割には、最後まで元気であり何の代償も支払わない。中盤でジルダの身を案ずる独白があるが、最終幕ではその時の人間性の表出はまるでなかったかのように、女心の歌を歌う。一貫性がなく、解釈が難しいところではあるが、このキャラクターの迷いそのものを彼の本質と捉えることができるように思う。
彼は最高権力者であり、この世界の頂点に立っているが、それを獲得するために努力したわけでも、維持するために注意を払っているわけではない。リゴレットと反対に、生まれながらに世界から恩恵を受けているわけである。しかし、世界が彼に全てを与えてくれたわけではない。彼は漁色家であり、自分はどんな女にも縛られないと豪語しているが、一方で女性が自分に向ける恋心も信じてはいない。この二つのアリアの内容は、どちらも彼の不道徳を表してはいるが、他者への理解という観点で言うと、対照的かつ相補的である。
彼は唯一の存在であるので、他者を理解することの価値や、他者に理解されることの喜びをわかっていない。その点では彼は子供であると言っていいかもしれない。そこに揺さぶりを加えるのが、リゴレットの愛を一身に受けて育ったジルダであり、彼は二幕の独白において、本心から彼女の清らかさに戸惑っているのである。だが、失われたと思ったジルダが自分のもとに帰ってきた時、彼は単に欲しいものが手元に戻ってきた喜びでいっぱいになる。彼は結局、おびえたジルダの心を労わらず単純に欲してしまい、結果としてその未熟な振る舞いは彼女を傷つける。
リゴレットはマントヴァ公のこうした一面を理解しようとしなかった。それは、彼があまりに世界によって傷つけられ、その頂点にいるマントヴァ公を軽蔑し、盲目的に憎んでいたからである。リゴレットが彼を殺そうとした時、そこにあったのは「自分を虐げた世界の象徴としてのマントヴァ公」を打ち倒すことであった。ここに、リゴレットの方が陥った「不理解」が現れる。彼の方もいつの間にか、人間としてのマントヴァ公を理解しようとすることをやめてしまったのである。
許し(ジルダとは?)
リゴレットが娘ではなく自らの復讐のため、盲目的にマントヴァ公を対象として選んだ、と考えると、なぜジルダがリゴレットの復讐を妨げたのかが説明できる。リゴレットと異なり、ジルダは外の世界への憎しみとは無縁に育てられた。リゴレットの負の部分をもたず、他人を理解しようとするジルダは、マントヴァ公自身もこの世界が生んだ未熟な子供であり、欠落を抱えていることを知っていた。だから、彼女の父の行為は誤っているし、マントヴァ公は救われるべき人物なのである。
ジルダの悲劇は、リゴレットの抱えた傷へ愛情を持って接してきたように、マントヴァ公の欠損に対しても自分を犠牲にするほどの愛情を与えたことである。もちろん彼女も一人の若い女性であり、暮らしの外にあるもの、初めての恋というものに心を躍らせたであろう。マントヴァ公の裏切りは純粋な彼女を傷つけたであろう。しかし、優しさや共感という面については、彼女はこの物語に登場する他の誰よりも成熟し、恵まれた人物だったのである。
彼女は父の復讐を止めるだけではなく、父にマントヴァ公を「許す」ように懇願している。ただ殺さないだけではなく、なぜ許しが必要なのだろうか。それは、この「許し」がマントヴァ公のためだけではなく、リゴレットのためにこそ必要だからである。リゴレットは、彼が人間と見なされなかったことの裏返しのように、全ての人々を軽蔑することで孤独を再生産していた。世界を憎んで、いつの間にか「人」を憎むようになってしまったリゴレットを、その憎しみから解放するのが「許し」なのである。
呪いのテーマの正体はこのあたりにあると思う。まずは、誰からも理解されず、人間として生きることを許されない呪い。そして、世界に絶望するあまりに、人々への憎しみに囚われてしまうという呪い。そして、この呪いは異なる形で、マントヴァ公や宮廷人にも降りかかっている。このような「荒廃した世界」という呪いから唯一自由であったジルダだけが、呪いに抗うための「許し」という道を示して死ぬ。しかし、彼女が死ななければならなかったことすらもまた、この世界の呪いの一つと言える。リゴレットは「呪い」について悟った上で、これからも世界に抗っていかなければならないのである(美術の方向性へつづく)。
文責:伊藤薫
撮影:奥山茂亮