第三幕
第11曲
・リゴレットとジルダ
本当にジルダを思っていれば、公爵の乱行を見せつけたりはしない。リゴレットは娘に冷たい言葉を投げつける。
○女は気まぐれ
初めの「あれかこれか」との対置となるように、投げやりな陽気の中に、空虚さをしのばせる。マッダレーナのものと思われる女物の帽子や手鏡を用いて、単に男が女の気まぐれを嘆いているだけではないことを示す。その様子をジルダだけはのぞき見ていて、リゴレットは見ていない。
第12曲
・マッダレーナと公爵
マッダレーナが公爵をあしらうが、最終的に恋に落ちるのはマッダレーナである。二人が最後まで駆け引きをするのではなく、次第に公爵のある種の純粋さが押し出されていく。
・ジルダとリゴレット
モンテローネにしたように、リゴレットはジルダの復讐心をあおろうとする。しかし、リゴレットの同情に乗せた毒は、ジルダの心を父と同じ憎しみに染めることはできない。ジルダの心の傷と、リゴレットが娘に求めていることの違いを明確にする。
第13曲
・スパラフチーレとマッダレーナ
二人の仲の良いやりとりが、話している内容の物騒さにもかかわらず、笑いを誘うように作る。思いつきでねだるマッダレーナと、妙なところで律儀なスパラフチーレの掛け合いである。深刻な幕の途中で訪れる馬鹿騒ぎが、後になって対照的に悲劇を際立たせる。曲調と同じく、スパラフチーレが身代わりを提案するところから雰囲気が一変する。
○雷鳴、室内と室外
スパラフチーレが身代わりを提案し、マッダレーナはうまくいくわけがない、と答える。ここからの場面で雷鳴におびえているのは室内の二人であり、ジルダは毅然と立っている。彼らがおびえているのは雷鳴だけではない。彼らは罪のない人を殺すかもしれない、という自分たちの提案自体に興奮し、おびえている。雷光の時間的なコントラストと、室内・室外のコントラストを両立させる。
第14曲
・リゴレットと死体袋
陶酔するリゴレット。自分を英雄のように思い、復讐を果たしたことを誇る。ジルダを死体袋につめないことで、これを手荒く扱うことができる。
○フィナーレ
ジルダは既に死んでいて、彼女はリゴレットの背後から登場する。注意すべきなのは、彼女を霊として見せることである。青白い月明かり、静かな足取り、清らかな表情など、工夫すべき個所は沢山ある。リゴレットは多くの時間を死体に向かって喋るが、最後には頬に去っていくジルダのぬくもりを感じる。ジルダが暗闇に消えると、リゴレットはまた一人取り残される。
ドラマツルグのプランも演出案も、演出を通して演者と奏者に届き、最後にはお客さんに届きます。ですから、まずは演者と奏者に受け入れられる提案でなければなりません。彼らのほとんどは音楽家であり、常に舞台やピットで音楽を感じながら、次の音楽や演技を作っていきます。どんなに斬新なプランでも、その流れを妨げてはお客さんまで届きません。音楽の流れを助けること、これが舞台を生きたものにし、お客さんの体験を豊かにしてくれると僕は信じています。
撮影:奥山茂亮
文責:伊藤薫