オペラを上演する時、皆が見る唯一の情報源は楽譜です。そこには音楽があり、歌詞がありますが、状況を説明するト書きはほとんどありません。登場人物がどんな世界にいるのか?それぞれどのような環境に属し、どんな常識のもとに育ったのか?解釈のための手掛かりはあまりに少ないように思われます。
しかし、手掛かりの少なさは、かえって作品の自由度を増している、と考えることもできます。どの歌詞に重きを置き、その歌詞をどう解釈するか?なぜ音楽はこのように展開し、あのシーンに続くのか?これまで、美しい音楽・歌唱に触発されて、一つの作品から様々な新演出が誕生してきました。共通するのは、そこで「生きている」登場人物たちを包み込む、確固とした世界観の提示です。
全ての音楽と歌詞が推進力を発揮するためには、全ての音楽と歌詞が意味を持って発されるような世界を構築する必要があります。演奏者たちは「自分は今、どのような世界にいるのか」を見失ってはいけません。美術は観客の前に、その世界を視覚的な情報を以て現出させます。全ての制作は、一つの「背景」があってこそ達成されるのです。
前回の《愛の妙薬》はある難題を押し付けられ、作品の舞台や場面の意味合いを大きく転換する「読み変え演出」を作成しましたが、今回その必要はありませんでした。しかし、だからといって作品の背景が決まっているわけではありません。最初に言った通りト書きは少ないし、作品の当時の世界観を忠実に再現しても、観客に受け入れられがたい場合があります。それでも全ての参加者が、同じ舞台の上に同じ世界を感じて作り上げられるように、次の文章が必要だと考えました。
背景
読み変えとまではいかないが、時代設定は特に設けない。現代に人間を描くにあたって、時を遡行する必要はないからである。特定の国や年代を想定する必要はないが、あえて想像するならば、全ては現代の延長にあるという意味で、未来と考えればよい。
リゴレットと宮廷人の間にある断絶が、この物語の最も重要な背景となる。しかし、原作に準拠してリゴレットに何らかの身体的特徴を与えることは好ましくないし、その必要があるとも思わない。とにかく彼は何らかの理由で特別に卑しい人間とされており、宮廷人たちの誰もそれを疑うことはないのである。重要なのは結果として生まれる諸事象、すなわち彼に対する蔑視と不理解、彼の抱く恨みと絶望であって、もともとその理由はあれこれと付け加えるほど意味のあるものではない。
宮廷人たちはリゴレットを劣った人間、自分たちとは異なる存在とみなしていて、その心に思いをはせるものなど一人もいない。彼らにとってそれは前提であって、リゴレットが劣っているからという理由で彼に対して攻撃的になる者もいない。一方のリゴレットには強い自負心があり、愚かな宮廷人を嘲笑っているのだが、彼一人では表立って世界を覆すことなどできるはずもない。リゴレットは道化としての生を強制され、英雄になることも、美を愛することも許されない。
かといって、宮廷人の間に強い連帯が存在するわけではない。彼らは、自らが嘲られれば怒るが、同僚が笑いものにされれば笑う。単に同じ人間であるというだけの群れが社会を作っていて、彼らにとってはその社会が世界のすべてなのである。彼らはマントヴァ公爵に仕え、彼の望みを叶えることで生活している。
マントヴァ公爵は単なる宮廷人の一員ではない。リゴレットが疎外されているのとは異なる方法で、彼もまた、ヒエラルキーの外にいる人物である。彼の望みは全て叶えられ、そこに条件はない。宮廷では、全てのものが彼のために存在し、彼に奉仕することを望み、同格の他者はいない。
以上が宮廷の構成であるが、熱量の欠如した人間関係、固定化された身分、放埓な特権階級を説明する、退廃・退嬰の風潮に覆われた社会を想定している。強烈な欲望や憎悪の渦巻く世界ではなく、何か目的を失ったような、場当たり的な人間で埋め尽くされている。彼ら自身が活気を生み出すことはほとんどなく、だからこそ人々に刺激と快楽を与えるリゴレットは重宝されている。
宮廷を一歩出ると、見かけの洗練や懐古的な様式が消えうせて、後には何も残らない。
ゆっくりと死に向かう社会を体現した無秩序な空間が広がっている。スパラフチーレやマッダレーナはその中で無目的にその日を暮らす(主要な登場人物へつづく)。
文責:伊藤薫
撮影:伊藤大地