第三回本公演 プログラムノート公開

平素より、オペラ企画HAMA projectを応援いただき、誠にありがとうございます。

当企画は新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受け、本日4月25日に上演を予定していた第三回本公演歌劇《ドン・ジョヴァンニ》を延期といたしました。

これに伴い、本公演のプログラムに掲載予定だったプログラムノートを、ホームページ上で公開いたします。また、合わせて本プログラムノートの執筆を担当した相馬さんから皆様へのご挨拶も合わせて掲載いたしますので、ぜひご一読ください。

2020年《ドン・ジョヴァンニ》公演の舞台監督/プログラムノート制作を担当しました相馬巧です。普段は大学院にてドイツの哲学者Th・W・アドルノの音楽論を研究しております。HAMA projectには2018年の《愛の妙薬》公演から参加し、一貫して「楽曲解説をしないプログラムノート」をコンセプトに文章を書かせていただいています。舞台と客席との境を乗り越え、ひとりひとりの音楽経験のうちに批判Kritikを行うきっかけを生み出すことがその目的です。そのために私自身稽古に参加し、勉強会を開催し、演出の吉野くんを始めとするスタッフや歌手のみなさんと作品について議論を重ねて来ました。

HAMA projectのプログラムノートは舞台制作の一連のプロセスの結果であるべきだと考えています。私の文章がひとりの勉強の成果であることを超え、舞台、客席全体の活力になればと強く願います。そこで今回は《ドン・ジョヴァンニ》公演のためにこちらの文章を書き上げました。まだまだ課題は山積みです。しかしひとつの区切りを付けるため、ホームページ上での公開をお願いしました。来年の公演では更に発展させたものをみなさまにお披露目いたしますので、どうぞよろしくお願い致します。

また今回、「《ドン・ジョヴァンニ》読書ガイド」と銘打ってTwitterでの連載も担当いたしました。こちらで紹介した6冊の本が以下の文章を書く礎となった文献です。ぜひご参照下さい。

それでは、来年みなさまにお会いできることを心待ちにしております。

相馬 巧

以下、プログラムノート本文

音楽あるいはドン・ジョヴァンニ、その不可解さについて

相馬巧(東大院表象文化論/舞台監督)


すべてのものがいっそう美しく、いっそう意味深きものとなる、

 ――いっそう光り輝くものとなったり、反対にいっそういまわしいものとなったり、
  ――いっそう驚くべきものになったり、反対にいっそう虚しいものになったりする、
   そんな心の動きのみなもとになるものすべて

ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』より

 

 ドン・ジョヴァンニという不可解な人間をいかに肯定するか、この問いがわれわれに突き付けられている。この「われわれ」とは、HAMA projectの演出家、指揮者、歌手、オーケストラならびに舞台スタッフの面々だけではない。今日の舞台を目の前にする観客のひとりひとりもここに含まれている。なぜなら、それはドン・ジョヴァンニという人間を考えることが「音楽とはなにか?」というひとつの根本的な問いに結びついているためだ。この問いこそがいま、われわれにとって喫緊の課題である。

 今年2月26日、コンサートや演劇の公演といった大規模集会の開催中止の要請が、相次ぐ新型ウイルスの蔓延への対応策として日本政府から発表された。このことに多くの人が強い衝撃を受けたことだろう。当たり前にあったものが姿を消していく。このような非常事態において、しばしば芸術は、一般にその社会的意義が疑問視されると同時に、逆にその潜勢力を目覚めさせることがある。もしかすると、芸術とは困難に直面してはじめてその真価が発揮されるのかもしれない。そうであるならば、このように逼迫した状況だからこそ、それまで見えなかったものがわれわれの前に立ち現れるのではないか。そして、モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》こそ、まさにこの音楽の潜めたる力を体現する作品ではなかったか。

 そのためこの小文は、HAMA projectが今日の舞台を「いかに制作したか」を述べるマニフェストではあり得ない。そうではなく、この小文は、《ドン・ジョヴァンニ》というオペラに対峙するすべての人に向けたひとつの問題提起でなくてはならないのだ。われわれは彼をいかに舞台に立たせ、そして彼をいかに観るのか。その点において、われわれはいま試されていると言えよう。その試練とは、ドン・ジョヴァンニという不可解な人間のあり方をわれわれが受け入れることができるのかどうか、つまりこの不可解さを不可解なままに受け入れることができるのかどうかという試練である。ここには否応なく、騎士長というひとつの宿命が大きな困難として立ちはだかる。このことを明らかにして行こう。

 ここにひとつの連帯を作り出したい。

 このオペラのなかでドン・ジョヴァンニは様々な言葉で形容されている。「騎士」、「貴族」、「人殺し」、「最愛のひと」、「放蕩者」、「極悪人」。いずれもが紛れもなく彼を言い表す言葉である。しかし、どの言葉をもってしても、彼を十全なかたちで表し切れてはいない。彼はいかなる言葉、すなわち「意味」を持ってしても捉えることはできない。これこそ、ドン・ジョヴァンニの首尾一貫しない人間的・音楽的性格に起因する、彼の「不可解さ」であると言えよう。彼はある人間に出会うことで自らの人格を自発的に変化させる。そして、それぞれの他者に向けて多様な性質の歌を歌う。そのためにドン・ジョヴァンニは、女性を誘惑する際においてその手段を問うことがない。まなざしを向けながら実に雄弁に口説き落とすこともあれば、またひとり寂しげにマンドリンを奏でながら愛の歌を歌うこともある。窓辺から愛の言葉をささやくこともあれば、夜這いをすることもある。また男性に対しては、従者であるレポレッロを冗談めかし、自らと同じ貴族の階級にあるドン・オッターヴィオには慇懃な態度を取り、農夫であるマゼットには暴力をふるうこともある。

 だからと言って、彼は完全犯罪を成し遂げんとする巧妙な策士ではない。彼の性格はそれぞれの場所で、それぞれの人間に向かうたびに幾度も作り変えられるが、決してそれが故意に行われているのではないためだ。その性格の変化はあくまで他者との関係において自発的に決定されるのであり、ドン・ジョヴァンニはその不断の変化における瞬間の束を生きている。そしてわれわれは、舞台に立つひとりの人間のリアリティのうちからこの瞬間の束を見出すのだ。

 ここで、ドン・ジョヴァンニという人間の「不可解さ」が明らかになるだろう。普通、この社会で生きる上で、人間には自己の同一性(アイデンティティ)が要求される。それは、「まるで人が変わったようだ」という言葉に一般に恐怖の感情が込められることからも分かるように、われわれは生活上、ある一定の人格に留まることによってその社会的な生活が担保されていることと結びついている。このオペラにおけるほかの登場人物に目を向けるならば、明らかにそれぞれの人物がある一貫した音楽的な性格をもとに曲が付けられていることが分かるだろう。やはりモーツァルトの人間描写は、厳密なリアリズムの上に成り立っていると言える。そしてだからこそ、ドン・ジョヴァンニの「不可解さ」は際立ったものとなるのだ。

 デンマークの哲学者ゼーレン・キルケゴールのドン・ジョヴァンニ論「直接的、エロス的な諸段階――あるいは音楽的=エロス的なもの」の言葉を借りるならば、「女性的なるものへの憧れ」こそがドン・ジョヴァンニのただひとつの行動原理である。思い返してみれば、彼はいかなる目的のために女性を口説くのか。性的な興奮を得るためであろうか。ではなぜスペインで1003人もの膨大な人数の女性を口説かなくてはならなかったのか。ただそのような性癖であったからか。しかしそれだけでは彼の性格の変化を説明することはできないし、われわれはその性癖を持つに至った背景に目を向けなければならない。ひとつだけ分かることは、彼の誘惑がそれ自体で自己目的化しているということだ。ドン・ジョヴァンニは女性を誘惑するために誘惑をする。彼は自らのうちに宿るひとつの逃れ得ない衝動に突き動かされている。キルケゴールはこのことを「心的な愛」と「感性的な愛」のふたつの言葉を用いて説明していた。「心的な愛」をひとりの相手を求める行為とするならば、ドン・ジョヴァンニの「感性的な愛」は彼をこの衝動へと突き動かすものである。「感性的」とは、ひとことで言うならば、合理性や言葉によっては計り知ることのできないものを指している。キルケゴールの言葉を引用してみよう。

 (・・・)その根底からドン・ジョヴァンニは誘惑者である。彼の愛は心的なものではなく感性的なものである。そして感性的な愛は、彼の持つドン・ジュアンという概念に基づき、貞節ではなく紛うことなき不貞なのであり、ひとりの女性を愛するのではなくすべての女性を愛する。言うなれば、感性的な愛とはすべての女性を誘惑していく。この愛は瞬間のなかだけに存在するが、概念に沿って考えるならば瞬間とは諸瞬間の総体なのだ。こうしてわれわれの前に誘惑者が現れる。

 そのため、ドン・ジョヴァンニという人間のリアリティは「誘惑者」として目の前に佇んでいることそれ自体のうちにある。彼が巧妙な策士ではない理由はまさにそれである。つまり、彼は決して様々な人格を幾重にも含み込むというような「複雑」な人物ではない。彼の性格の変化は、目の前の人物によって喚起されたものとして説明される。そのことによって、ドン・ジョヴァンニは自らに付与されるある一定の「意味」を拒絶しているのだ。

 そして、このようにドン・ジョヴァンニが有する「誘惑者」という理念は、音楽という表現媒体のあり方に合致する。決して比喩ではなく、ドン・ジョヴァンニという存在それ自体が音楽という現象と重なり合うのだ。再びキルケゴールを引用しよう。

 感性的により大きな相違が感性的な愛を浮かび上がらせるのであるが、この愛にとって本質的なものとは真に抽象的な意味での女性である。心的な愛は時間のうちにおける持続であり、感性的な愛は時間のうちにおける消失である。そしてこの感性的な愛を表現する媒体とはまさに音楽である。

 ドン・ジョヴァンニは全くなんの持続も持たない。彼は永遠の消滅において急ぎ過ぎ去っていくのであって、それはまさに音楽と同様である。その音が鳴り止むやいなや音楽は過ぎ去っており、そしてまた再びその音が鳴り響いたとき、音楽はもう一度立ち現れている。

 ドン・ジョヴァンニという人間は、音楽という現象を文字通りに体現し、この両者は「不可解さ」という点において通底し合っている。それは、音楽もまたその外側から当てはめられた「意味」によって汲み尽くされ得ないものであるからだ。ひとつの例を挙げよう。ベートーヴェンの交響曲第5番はその冒頭を、ダダダダーンという有名な主題によって始まる。19世紀において、この主題が「運命が扉をたたく」というひとつの「意味」に基づいて聴き取られていたことは有名な話であろう。しかし、果たしてこのような「意味づけ」はなにかを言ったことになるのだろうか。音楽とは、そもそも無数の音の響きが結びついて生み出されるものである。にもかかわらず、音楽にそのようにありもしない意味や価値が外側から付与されたとき、音楽を形成する音の響きそれ自体が聞き逃されてしまう。そのときに音楽の営みとは、ただ習慣化されたイメージを追いかけるに過ぎないものとならざるを得ない。音楽は耳で聴くものであって、心で聴くものではない。われわれはドン・ジョヴァンニの「不可解さ」を手掛かりにすることで音楽の「不可解さ」に目を開き、幻想から音楽を救い出すことができるのではないだろうか。

 ここでさらにほかの登場人物にも議論を広げよう。ドン・ジョヴァンニの「意味」の無効化は、彼ひとりの現象に収まることがない。ドン・ジョヴァンニは、自分自身に付与された「意味」のみならず、ほかの登場人物がそれまで担っていた「意味」を攪乱し、無効化する。この過程こそ、《ドン・ジョヴァンニ》というオペラの本質にほかならない。修道女であったドンナ・エルヴィーラは自由な恋愛に憧れ、農村にて暮らしていたヅェルリーナは貴族との恋愛に身震し、生粋の箱入り娘であったドンナ・アンナは初めて性的な興奮を体験する。それは戸惑いと共に受け入れられる。そのためマゼットにもドン・オッターヴィオにもこの事態はただごとではない。それまでの平穏な生活は、取り返すことができないほどにかき乱されてしまった(とりわけマゼットの焦りは印象的である)。それまで自らの人生を決定していた「意味」を揺り動かす。その意味でドン・ジョヴァンニは――よく言及されているように――、紛れもなくフランス革命の寵児である(このオペラは1787年、フランス革命の始まる2年前に作曲された)。

 では、このオペラは社会変革の物語であるのか?それともやはり、女たらしの人殺しが懲らしめられる道徳劇であるのか?すでに明らかなように、どちらでもあるしどちらでもないと言わなくてはならない。このオペラの本質とは、あらゆる「意味」を引き受けると同時に拒絶する、その不断の過程にあるのであって、それはなにかひとつの結論を導き出すこととは相容れないのである。

 しかし私は一抹の不安を覚える。果たしてわれわれは本当にこのように「不可解」な人間を肯定することができるだろうか。ここまで書いたことはひとつの作品解釈の理念である。しかしわれわれは理念のみを問題にしてはならない。われわれは実際の舞台において、ドンナ・アンナやマゼットとともにその驚きに身を投じ、ドン・ジョヴァンニへの「意味付け」を振り払い、あらゆる出来事を宙づりのままに終わらせなくてはならない。これは《ドン・ジョヴァンニ》というオペラに宿命づけられた困難さである。

 そして、このような困難さを体現する人物がひとりこのオペラには登場する。それが騎士長である。ほかの登場人物たちがドン・ジョヴァンニの「不可解さ」に魅了されていくのに対して、騎士長だけはそれを拒み、明晰な意識であろうとする。だからこそ騎士長は、ドン・ジョヴァンニを「不可解」なままに留めようとするわれわれにとっての、最大の障壁となる。それゆえこのオペラの最後に訪れるドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面に、われわれは細心の注意を払わなくてはならない。あの比類なきダイナミズムを備えた音楽を前に、それをただ聴き惚れることとは、われわれが騎士長の側へと加担することになるのではないか。騎士長はドン・ジョヴァンニに「悔い改めろPentiti!」と迫る。これこそがまさにドン・ジョヴァンニを「意味づけ」ようとする罠である。その罠とはつまり、ドン・ジョヴァンニを、先ほども述べた封建世界の革命者や女たらしの極悪人のような、ある特定の性格付けを持った人間であるように見せかけようとする装置である。ドン・ジョヴァンニはたしかに「No!」と叫びながらその要求を拒むが、しかしそれだけでは決して十分ではない。あの壮大な音楽を背にしながらドン・ジョヴァンニが華麗に死んでいくとき、彼の「不可解さ」は消え去ってしまうだろう。われわれはこの音楽に対して誠実に抗わなくてはならない。

 繰り返しとなるが、このオペラの本質は、ドン・ジョヴァンニの人間的・音楽的性格の変化、ならびにドン・ジョヴァンニとほかの登場人物の関係性のうちにある。このなかでわれわれがその諸々の変化が行われる瞬間の束のなかに生きることを知るならば、ドン・ジョヴァンニと共に騎士長に抗うことができる。そのために、このオペラの最後の六重唱は決してカットされてはいけない。これまでの上演史においてこの曲のカットは長らく習慣化されてきたが、これこそまさに騎士長による「意味づけ」に屈したことにほかならないのではないか。この六重唱は、「これぞ悪事をなす者の最期」という実に教訓めいた歌詞で終わる。しかしこれは本当に彼ら/彼女らの本心なのだろうか。この曲の後奏、およそ10小節の短い音楽のうちに私はいつもドン・ジョヴァンニの影を見て取ってしまう。音楽というかたちを取り、ドン・ジョヴァンニという理念は生き残る。それがひとつの希望であるかのように私には感じられるのだ。

 

 

Follow me!