Così fan tutte…?

女はみなこうしたもの…?

キュレーター(選曲・演出・文章)/相馬 巧

Studio

02

Così fan tutte…?

女はみなこうしたもの…?

キュレーター(選曲・演出・文章)

相馬 巧

Studio

02

モーツァルトの音楽はどこにあるのか

 ある音楽作品が美しいことの理由をその作品のなかに探し求めてはならない。なぜなら美とは、あらかじめ物のなかに宿るのではなく、感じ取られることで初めて立ち現れるものであるからだ。このことは、たとえモーツァルトの傑作と呼ばれるような作品であろうと同様である。しばしば行われていることだが、楽譜の分析やモーツァルトの生涯を辿ることによって、なぜその音楽作品の美しさを立証できるというのか。

 そもそも音楽とは音と音の連なりである。そして楽譜とはその連なりを一時的に記録するためのメディアであって、ひとつの書物としては作品であるが決して音楽作品ではない。またモーツァルトという人間はたしかに楽譜を書いてくれた恩人ではあるが、われわれは楽譜の読解を通してしか彼の意図をうかがえない以上、彼の生涯と作品とが直接に結びつくことはない。だからこそ、クラシック音楽の愛好家ではない人々の「そもそも私はモーツァルトをよく知らないし分からない」といった言葉は、ある意味で正しいといえる。というのも、誰であろうと、作品に関する知識を得たからといって、その音楽の美しさを十全に享受できるとは限らないためだ。音は目の前で鳴っている。にもかかわらず、「モーツァルトの音楽とはこういうもの」といった知識によって、あらかじめ決められたかたちでしか目の前の音を受け入れることができなくなる。耳が閉ざされてしまうのだ。それならば、案外なんの知識も持たないひとの方が音楽とはよく聴けるものなのかもしれない。

 しかしながら、なんの知識も持たないひとが《フィガロの結婚》の複雑な筋を追うことはできないだろう。そのうえ聴き慣れない音楽は、しばしばカオス的に羅列された音の連続にしか聴こないことだってある。それならばわれわれにできることとは、「モーツァルトの音楽とはこういうもの」という知識を引き受けながら、それを打ち破る演奏の実践と聴取を行うことではないか。その意味で、モーツァルトの音楽の本当の美しさはまだ誰にも明らかにされてはいない。モーツァルト自身にだって気付けなかった彼の音楽の真価をわれわれは発見することができる。

 その試みはまず、「モーツァルトの音楽は美しい」という前提を断ち切ることから始まる。そして、いま一度楽譜をそのままに読み解き、演奏すること。さらに、音と音の連なりをそのままに聴取することが課題となる。近藤譲の著作『線の音楽』につぎのような言葉があった。「どこかでケージが語っていたように、「美は避けなければならない」。美しさは、結果ではあっても出発点ではないのだから」。われわれはこの課題といかに向き合おう。

 本企画では、上記の構想に基づきながら、モーツァルトのダ・ポンテ三部作から曲を抜粋し、上演を行った。各曲の演出はキュレーターの相馬が担当している。曲はいずれも、ソナタ形式にみられるような起承転結が無く、ふと言葉があふれ出てきたように発せられる音楽、いわば幻想曲の趣きを持つものを選定した。ひとつのオペラのなかでも、その曲のあいだは時間が止まったような感覚を与える。またその歌詞は、物語のなかで重要な意味をほとんど持たない。その曲のあいだ、音楽はどこへ向かうのか。登場人物は何を考えているのか。いずれもどこか曖昧なままにとどまっている。企画のタイトル「Così fan tutte…? 女はみなこうしたもの…?」は以上のような音楽のあり方を表す。また、こうした音楽の特徴をより明確に把握するためにモーツァルトの室内楽曲を一曲選定している。

ピアノ四重奏曲第1番ト短調 K. 478 より 第3楽章

ピアノ四重奏曲第1番ト短調 K. 478 より

第3楽章

ト長調のロンド・ソナタ形式。

戯れるような旋律と技巧的な表現が華やかに展開される。(秋池)

ピアノ:秋池朝子/ヴァイオリン:伊澤拓人/

ヴィオラ:中谷奏/チェロ:小林賢太郎


 しばらくはモーツァルトらしい長調の明るい音楽が進む。すると次第に短調の暗い音楽が垣間見えてくる。気が付けば辺りは真っ暗闇だ。かと思うと、また明るさを取り戻す。それを繰り返し、この楽章は幻想曲のように長調と短調のあいだを曖昧に行き来する。ときには性格の異なるピアノと弦とがぶつかり合うこともある。そこには、どこか必然性が感じられない。まるでふと浮かび上がったフレーズがとつとつと紡がれていくかのようだ。なぜモーツァルトにはこのような音楽が書けたのか。楽章全体を構成する冒頭の主題にその要因を見て取ることができる。中央に休符を持つ8小節分のこの主題は、前後の4小節(楽節)で異なる性格を有する。ここではよりなめらかな前楽節を「歌」、スタッカートを多く含む後楽節を「語り」と捉えてみよう。秘かに分裂するこの主題を散りばめることで、全体はどこか言いようのない謎めいた性格を帯びる。しかし、それは解決されることを求めない晴れやかな謎としてある。

冒頭の主題

《ドン・ジョヴァンニ》第2幕より

ヅェルリーナのアリア “Vedrai, carino”

花嫁ヅェルリーナのコケティッシュな魅力が香るアリア。

彼女の魔法の「お薬」が傷ついたあなたの心を癒します。(近藤)

ヅェルリーナ:近藤はるか/チェロ:小林賢太郎/ピアノ:北野怜直


 モーツァルトの神経の太さにはまったく恐れ入ってしまうが、この曲では若いカップルの仲睦まじい会話がそのまま歌詞に用いられている。時代の因果か、はたまた彼の趣味か。だからといって、この曲がありふれた色恋沙汰の一場面に終始するというのではない。この曲には恋をすることの喜びと驚きがある。しかもそれが、誰しもに共感できるかたちで描かれている。不思議なことに、彼女の本来のパートナーであるマゼットはこの曲のどこにも登場しない。ここでは物語の時間が止まっているのだ。思春期、それに類する人生の過渡期、社会化される前と後。そうした移行のただなかに彼女は佇んでいる。ヅェルリーナがなにを考えているのか、それはいまひとつ明らかにされない。いや、彼女は音楽の曖昧さと人間の生身の身体とが交差する端境にいるのだから、その姿はどこか謎めいたままでいなくてはならない。このことを表現するため、歌手にはフレーズによって「歌」と「語り」とを区別して歌うようお願いした。

《フィガロの結婚》第 4 幕より フィナーレ(最終景はなし)

《フィガロの結婚》第 4 幕より

フィナーレ(最終景はなし)

「嵐のような一日」のクライマックス。女中スザンナとの逢引きへと急ぐ伯爵。しかし伯爵夫人とスザンナは彼を懲らしめようと画策する。通りすがりに夫人を口説こうとするケルビーノ。花嫁の移り気な姿に驚く花婿フィガロ。それぞれの想いが交錯する。(菅沼)

アルマヴィーヴァ伯爵:伊藤薫/伯爵夫人:吉田結衣/フィガロ:正木剛徳/スザンナ:菅沼千尋/ケルビーノ:小原明実

ヴァイオリン:伊澤拓人、中谷奏/ヴィオラ:京河音衣/チェロ:佐藤玲央/ピアノ:秋池朝子


《フィガロの結婚》は秩序立った世界と無秩序な世界のあいだを行き来する。なかでも本来暗闇のなかで進行する4幕のフィナーレにおいて、その無秩序さは頂点に達する。伯爵の邸宅は崩れ落ち、世界の諸々の制度が以前のあり方を維持できなくなるのだ。伯爵夫人とスザンナが互いに姿を入れ替えることがこれを最も象徴している。だからといって、単にカオスとしてこのオペラが終わる訳でもない。たしかに主要な登場人物である5人はケルビーノを中心に一種の混乱状態に置かれる。しかし、それは世界の新しい秩序のための通過儀礼であったのかもしれない。第 14 景 “Pace pace…” にてフィガロとスザンナは本当の意味での「結婚」を迎える。最終景 “Gente gente…” を演奏しないことが今回それをより明確に示してくれた。ここに生まれるのはひとつの「家」である。この「家」が、かつての伯爵の邸宅ではなりえなかった人々の幸福の土壌を成すのかどうか。ここに極めて重要な問題がある。そこで伯爵夫人の背中はなにを語るのか。

音楽はどこへ向かうのか?

自分との対話

1.

《コジ・ファン・トゥッテ》第1幕より

ドラベッラのアリア “Smanie implacabili”

あなたの恋人は戦地に行ってしまったと騙されるドラベッラ。恋人との永遠の別れに絶望し、劇的なレチタティーヴォ・アッコンパニャートとアリアを歌う。(小原)

ドラベッラ:小原明実/ヴァイオリン:中谷奏/ピアノ:秋池朝子


 いままさに恋に破れ、絶望している女性にかけるべき言葉などあるはずもない。しばらくはそのひとの言葉に耳を傾けていよう。だがそれにしても、傍らに佇む者にできることとはなんだろう。感情移入をすることか。それは少し違うだろう。どうしたって、「わたしの気持ちはあなたには分からない」と言われてしまう気がする。それならばいっそのこと、立場の違う人間としてそのひとに向き合ってみないか。このアリアを歌うドラベッラにもそのような姿勢で向き合ってみたい。彼女は、恋人を失った絶望のすべてを歌に込める。しかし、それはあまりにも明け透けに吐露されるあまり、観る者をどこか置き去りにしてしまう。そのためであろうか、モーツァルトは、レチタティーヴォに嵐の様な音型の伴奏を付しているのに対して、アリアの伴奏にはどこか楽しげなリズムを持たせている。これはひとつのアイロニーではないだろうか。今回は、このドラベッラの歌と伴奏との対比を強調するために、伴奏者のヴァイオリニストを歌手の横に立たせている。ひとりのソリストとして演奏してもらった。

《フィガロの結婚》第1幕より

ケルビーノのアリア “Non so più cosa son, cosa faccio”

《フィガロの結婚》第1幕より

ケルビーノのアリア

“Non so più cosa son, cosa faccio”

「自分で自分が分からない」と、恋に憧れる少年の不安定な心情が歌われる。(入夏)

ケルビーノ:入夏綾香/ヴィオラ:京河音衣/ピアノ:北野怜直


 ケルビーノは謎に包まれている。主役と呼ぶには歌の数が少ないが、しかし物語のなかで極めて重要な役割を果たすために脇役とも呼べない。なんといっても、小姓の身分にある 13 歳の少年がなぜ《フィガロの結婚》の舞台に登場するのか、それ自体がつねに漠然としているのだ。ふと現れては思いの丈を述べ、身を隠し、さらには逃げて行く。ここに物語の必然性がどこか見えてこない。そんな彼が最初に登場して歌うのがこの有名なアリアである。耳を傾けてみると、この曲がただキレイなだけの音楽ではないことがよく分かる。思春期に特有な分裂した感情があふれ出ているではないか。この少年の傍らには誰もいない。そして、山、空、風といった自然にある様々な事物が語られる。こういった言葉をひとつのレトリックとみなすことをやめるならば、ケルビーノは人間の社会から隔絶された自然児とみなすことができるだろう。「自分で自分が分からない」という歌詞は、すでにこのオペラが4幕にて迎えるカオス的な状態の先触れとなっている。《フィガロの結婚》はケルビーノをきっかけに破綻を迎える。だがそれは、来たるべき幸福な社会へと向けられた破綻である。

《フィガロの結婚》第2幕より

伯爵夫人のカヴァティーナ “Porgi amor qualche ristoro”

《フィガロの結婚》第2幕より

伯爵夫人のカヴァティーナ

“Porgi amor qualche ristoro”

夫の愛を失い、物思いにふける伯爵夫人のアリア。

長調の曲でありながら、切ない想いが吐露される。(吉田)

夫の愛を失い、物思いにふける伯爵夫人のアリア。長調の曲でありながら、切ない想いが吐露される。(吉田)

伯爵夫人:吉田結衣/ヴァイオリン:伊澤拓人、中谷奏/

ヴィオラ:京河音衣/チェロ:佐藤玲央/ピアノ:秋池朝子


 この曲には伯爵夫人の孤独に寄り添うものがある。今回の伴奏はピアノと弦楽四重奏の合奏に編曲されているが、原曲では序奏にて現れてくるクラリネットの音がこれを最も代表している。この音が、自らのうちに閉じこもろうとする夫人に寄り添い、彼女の心に光を差し込ませるのだ。歌詞の変化にこのことが表れている。彼女は最初、「愛の神よ、慰めをお与えください/私の悲しみに、私の嘆きに」と自らの苦しい心のうちを語る。しかし、再び現れるこのクラリネットの音を境にして、「私の宝を返してください/さもなければ私に死を」と、自分以外のなにか大事なものについて語り始める。心境の変化というより、混乱する彼女の想いがそのまま表れていると言った方が適切であろう。決して孤独ではないと分かりつつも、ふと耐えられなくなってしまう。しかしそのときにあのクラリネットの音が鳴ってくれる。

序奏のクラリネット

音楽はどこへ向かうのか?

いまはいないひととの

対話

いまはいないひととの対話

2.

《ドン・ジョヴァンニ》第2幕より

ドン・ジョヴァンニのカンツォネッタ

“Deh, vieni alla finestra”

セレナーデ。かつて捨てた女性ドンナ・エルヴィーラの女中に目を留めたドン・ジョヴァンニは、窓辺に呼び寄せようとマンドリンを携えて恋心を歌う。(伊藤)

ドン・ジョヴァンニ:伊藤薫/ピアノ:北野怜直


 稀代の女たらしドン・ジョヴァンニは、いままさに口説き落とさんとする目の前の女性によって自らの姿を自在に変化させる。貴族、町娘、農民、修道女、、、彼はそれぞれの女性によって最も適した口説き方を選択し、実行する。ところが、このカンツォネッタの歌が向かう先は、彼もまだ知らない女性。いや、実在するかどうかも分からない女性だ。というのも、ここで彼が窓辺に見かけるエルヴィーラの女中はリブレットのどこにも登場しない。それはジョヴァンニの見た幻想であるかもしれないのだ。音楽学者のアッティラ・チャンパイはこのオペラをジョヴァンニの凋落の物語として解釈している。というのも、このオペラのなかで彼は一度も女性を口説き落とすことに成功していないのだ。そのなかでも、カンツォネッタを彼の凋落の最も象徴的な事件と捉えていた(『名作オペラブックス 21 ドン・ジョヴァンニ』、音楽之友社、1988 年)。今回は、「わたしは死んでしまおう」、「姿をみせておくれ」といった歌詞を、ヨーロッパ的な口説き文句ではなく、本心から口にする人物としてジョヴァンニを登場させた。

《コジ・ファン・トゥッテ》第1幕より

グリエルモのアリア “Non siate ritrosi”

グリエルモ、フェルランド、ドン・アルフォンソの三重唱

“E voi ridete?” 

《コジ・ファン・トゥッテ》第1幕より

グリエルモのアリア “Non siate ritrosi”

グリエルモ、フェルランド、

ドン・アルフォンソの三重唱

“E voi ridete?” 

ドン・アルフォンソとの賭けに乗り異邦の姿に扮して自らの許嫁を口説くグリエルモ。彼女らに拒絶され、自らへの愛を確かめたところで親友フェランドとともに思わず笑い出す。(正木)

グリエルモ:正木剛徳

フェランド:鷹野景輔/ドン・アルフォンソ:四方裕平

ヴァイオリン:中谷奏/チェロ:小林賢太郎 /ピアノ:秋池朝子

グリエルモ:正木剛徳/フェランド:鷹野景輔

ドン・アルフォンソ:四方裕平

ヴァイオリン:中谷奏/チェロ:小林賢太郎 /

ピアノ:秋池朝子


 このグリエルモのアリアに女性たちは登場しない。一度でも、彼女らがグリエルモに返答することはないのだ。それでも彼は歌をやめようとはしない。熱烈な言葉を虚空へと吐露し続ける。このような一方的な要望と独りよがりな歌で、女性を口説き落とせる訳がないだろう。おそらくはグリエルモもフェランドも、そのことをよく理解していたはずだ。その意味で、この歌は《コジ・ファン・トゥッテ》というオペラが持つ荒唐無稽さを明確に映し出している。なぜグリエルモとフェランドは突如として笑い出すのか、少なくとも歌詞はその理由を説明してくれない。だからこそアルフォンソはふたりに尋ねる。「君たちは笑っているのかね、どうしたというのだ」。この音楽のなかでは演じているものがその人間の本性になる。まだ明かされていない真実が彼らの身につけるペルソナ(マスク)のうちに隠されているというのではない。この歌には彼らのペルソナ(マスク)しか存在しない。

《コジ・ファン・トゥッテ》第2幕より

ドラベッラとフィオルディリージの二重唱

“Prenderò quel brunettino”

お茶目な二重唱。ドラベッラは黒髪の彼に、フィオルディリージは金髪の彼に心揺れ動かす。(中島)

ドラベッラ:中島晶子/フィオルディリージ:菅沼千尋

チェロ:小林賢太郎/ピアノ:秋池朝子

ドラベッラ:中島晶子/フィオルディリージ:菅沼千尋/チェロ:小林賢太郎/ピアノ:秋池朝子


 この二重唱の美しさはいかなる意図も目的も持たない。ふたりの女性が遊びながらちょっとしたケンカを始めるという状況しか、ここには存在しない。まるでアラベスクの模様のように、いかなる目的も有することなくこの歌は展開される。そして、この模様をより複雑にするため、モーツァルトはふたりの歌に微妙な書き分けを行っている。ドラベッラの歌にはフォルテ、付点のリズム、スタッカートが多く、そしてフィオルディリージの歌には溜息を示す休符が差し挟まる。しかし、ふたりの歌は決して対照的なものではない。それゆえに、この書き分けがふたりのなんらかの関係性を示すものとは考えられない。ふたりはただ遊んでいる。今回は、トランプを用いることで音のアラベスクという性質を視覚的に表した。

音楽はどこへ向かうのか?

幻想との対話、

幻想そのもの

幻想との対話、幻想そのもの

3.

《ドン・ジョヴァンニ》第2幕より

ドンナ・エルヴィーラ、ドン・ジョヴァンニ、

レポレッロの三重唱 “Ah taci ingiusto core”

《ドン・ジョヴァンニ》第2幕より

ドンナ・エルヴィーラ、ドン・ジョヴァンニ、レポレッロの三重唱 “Ah taci ingiusto core”

2幕序盤の三重唱。夜、窓から聞こえてくるドン・ジョヴァンニの声にドンナ・エルヴィーラの心は揺れ動く。(櫻井)

ドンナ・エルヴィーラ:櫻井奈々子/ ドン・ジョヴァンニ:山田和司

レポレッロ:兵藤直哉/ヴァイオリン:伊澤拓人、中谷奏/

ヴィオラ:京河音衣/チェロ:小林賢太郎/ピアノ:秋池朝子

ドンナ・エルヴィーラ:櫻井奈々子/ ドン・ジョヴァンニ:山田和司/レポレッロ:兵藤直哉/ヴァイオリン:伊澤拓人、中谷奏/ヴィオラ:京河音衣/チェロ:小林賢太郎/ピアノ:秋池朝子


 妙に生々しい夢を見ることもあれば、すぐに夢と分かる夢を見ることもある。この三重唱にて、ドンナ・エルヴィーラとドン・ジョヴァンニは夢と現実の境目に立たされている。なぜ自分がそこにいるのかも分からず、ふたりは執拗に繰り返される主題に導かれながら彷徨い続ける。スラーのついた下降音型、スタッカーティシモのついた同一音の連打、そしてトリルが組み合わさった冒頭の主題が、すでに夢と現実のあわいを作り出しているのだ。曲が始まったとき、ジョヴァンニはレポレッロと策略を練る。しかし彼の歌からはやがてその策略の気配が消え失せていく。言葉の上ではエルヴィーラを誘惑したと語りつつも音楽は熱烈に彼女に寄り添うものに変わり、こうして言葉と音楽の不一致が生まれる。それ自体がジョヴァンニによる策略なのか、あるいは本心であるのか。少なくとも三重唱だけを取り出して聴くならば、ジョヴァンニの迫真さには驚くばかりだ。彼に本心を見ようとすることがそもそも不毛な行為だと分かりつつも。

冒頭の主題

《フィガロの結婚》第4幕より

バルバリーナのカヴァティーナ “L’ho perduta”

《フィガロの結婚》で唯一の短調の曲。

このオペラで描かれる悲しみ、苦しさ、怒りに向けて、モーツァルトはいずれも長調の音楽を用いている。なぜ彼はバルバリーナにだけ短調をあてたのだろう。(井上)

バルバリーナ:井上千優

ヴァイオリン:伊澤拓人、中谷奏ヴィオラ:京河音衣/チェロ:佐藤玲央


 ピアノ協奏曲 20 番の第2楽章にあるト短調の中間部がそうであるように、モーツァルトの短調の音楽はときに驚くほどの暗さを帯びることがある。それは亡霊のように突如として現れ、跡形もなく消え去る。これをいかに捉えてみるべきか。そうした音楽を登場人物の憂鬱や悲しさの感情に引きつけることは易しい。なんとなく、その音楽を理解できたような気持ちになれる。しかしその一方で、この謎めいた音楽を謎めいたままに聴いてみたいという思いが湧き上がってくる。そもそも、この音楽は理解できた、と語ること自体が欺瞞ではないのだろうか。今回は、ミレーの絵画で有名な「種まく人」の情景を作ることで、バルバリーナという少女をひとつの神秘的な幻想に見立てた。マルコ福音書に「種まきは御言葉をまくのです」(4.14)という有名な言葉があるように、畑にまかれた種子は聖書のなかで神の御言葉の比喩として登場する。そうして、「あれをなくして、わたし困ったわ」と語る彼女の戸惑いを、あらすじなどの外的な要素なしに音楽と結び付けることとした。

収録を終えて――音楽家と批評家

収録を終えて
――音楽家と批評家

Epilogue

新型コロナ・ウイルスの感染拡大の影響から、数多くの音楽系の映像企画がインターネット上に発表されるなか、この HAMA project のホームページが世間にどこまで強い印象を与えることができるのか。モーツァルトの有名な曲をただ演奏するだけでは、いかに素晴らしい歌を収録しようとも YouTube のほかの映像とただ比較されるだけで終わってしまうのではないか。このような懸念を払拭するため、本企画「Così fan tutte…? 女はみなこうしたもの…?」では、筆者が専門とする「批評」の営みを可能な限り実際の演奏行為に接近させることを考案した。必要最少限の文字情報でそれぞれの曲・演奏を批評する文章を付したことはもちろん、自身で演出を担当し、あわよくば新たな視点からの批評を促すような上演を制作している。

音楽家の仕事とは、作品の音を出すことである。それに対して批評家の仕事とは、簡単に言えば論じる対象について考えを巡らすことである。であるならば、音楽家と批評家が、作品について対等に協議する演奏の現場があっても良いのではないか。それによって、なにか新しいものが生まれる予感がした。注意点として、この共同作業の話題はつねに作品でなくてはならなかった。そのため稽古中は、作品とは切り離されたかたちでの演奏についての提言はできる限り私からは控えることとした。それが互いの領分を尊重し合うことにつながると判断したためだ。

しかしながら、学術研究と批評を本来の領分とする者がオペラ演出をすること自体もう立派な侵犯行為といえる。今回が筆者自身にとってはじめての演出の仕事であった。自らの技量の無さに大いに恥じ入りつつも、収録当日の現場に流れたただならぬ緊張感にどこか居心地の良さを感じ、また達成感を覚えることができた。ひとまずは、こんな新米演出家についてきてくれた出演者・スタッフの全員に心からの謝意を表したい。みんなありがとう。あとは、この企画を視聴してくださった方々とモーツァルトの作品についてゆっくりと議論をする時間を待ちたい。

相馬巧(キュレーター)

― はまぷろ Studio2021 について ―

― はまぷろ Studio2021 について ―

 本企画のタイトル Studio(ストゥディオ)は、本番に向けて皆で勉強・研究を重ねていこう、という意味で名づけられました。コロナ禍で稽古・公演が中止となってから活動再開の端緒となったのは、オンラインでの勉強会です。オペラ企画 HAMA project(はまぷろ)には様々なフィールドから音楽を愛する演奏者やスタッフが集まっています。その中から、楽理・音楽史・評論・文学・発声・語学・演劇・建築など、普段は音楽に関連する研究活動を行っている参加者が、オペラの演目や楽曲について知識や考察を提示し、これらをもとに皆が議論しました。それは、公演に向けた稽古を主体とする従来の活動にはなかった、団体の新しい姿でした。

本企画は、この「研究者と演奏者を結び付ける機能」さらには「オンライン」が持つ様々な可能性から、新しい表現形態を創出しようとするものです。企画は3つの段階からなります。1つ目は「勉強会」。研究者であるキュレーターを中心に、それぞれの掲げるテーマに基づいて楽曲を選定し考察します。2つ目は「演奏会」。演奏者が勉強会を経て得た知見や感触を、実演に落とし込み披露します。3つ目は「展覧会」。今回の研究と実演を記録し、それらを一体化して視聴覚的に発表する Web アーカイヴを作成します。

 キュレーターの思考と想い、演奏者の努力と意欲を、音楽という学びに満ちた過程を、皆様と共有していきたい。それがこの「はまぷろ Studio2021」です。

はまぷろ Studio2021

企画・制作:

オペラ企画 HAMA project

ディレクター:

伊藤薫

運営:

吉野良祐

Webサイト制作:

中川真文

竹中梓

吉野良祐

動画制作:

相川治奈

近藤はるか

吉野良祐

撮影:

相川治奈

喜多村泰尚

志茂将太朗

髙橋伽徳

音楽アドバイザー:

濱本広洋

[Studio 2]

Così fan tutte…?

女はみなこうしたもの…?

キュレーター(選曲・演出・文章):

相馬巧

出演:

井上千優 (Sop.)

入夏綾香 (Sop.)

小原明実 (Sop.)

近藤はるか (Sop.)

菅沼千尋 (Sop.)

中島晶子 (Sop.)

吉田結衣 (Sop.)

櫻井奈々子 (Sop.)

鷹野景輔 (Ten.)

伊藤薫 (Bar.)

正木剛徳 (Bar.)

山田和司 (Bar.)

兵藤直哉 (Bar.)

四方裕平 (Bs.)

秋池朝子 (Pf.)

北野怜直 (Pf.)

伊藤拓人 (Vn.)

中谷奏 (Vn. & Va.)

京河音衣 (Va.)

小林賢太郎 (Vc.)

佐藤玲央 (Vc.)

指揮・編曲:

本間拓真


企画補佐:

中島晶子

衣装:

相川治奈

オペラ企画 HAMA project(はまぷろ)は、〈学生・若手演奏家が中心となったオペラ作り〉と〈小さな劇場ならではの舞台表現〉を理念として 2017 年秋に始動した芸術団体です。海と陸の境界である「濱」のように様々な要素が豊かに溶けあう場所を目指して、指揮者濱本広洋より1文字をとって HAMA project としました。愛称は『はまぷろ』です。

公式ホームページ

http://koyohamamoto.com/hamapj/